TOPに戻る
次のページ

序章

H県K市にはいつものように山の空気と微かな潮風が入り混じっている。夜の間に山の空気が颪となって浜辺までを包み、昼には潮風がそよそよと山の木々を揺らす。朝の涼しい山の空気を吸いながら歩くのは好きだ。駅の地下道を潜り抜け、山側へと歩くにつれて空気が色濃くなっていくのを感じながら辺りを見渡す。古くは平清盛の時代から海運の要所として栄え、開国以降は港町として西洋の文化を柔軟に取り入れて大都市へと発展を遂げたこの街の栄華は二十年ほど前の大地震とともに終わりを告げた。わたしが生まれてようやく歩き出したかどうかの頃に起きた地震と火災は古い街並みを根絶やしにし、湾岸に伸びた高速道路は手抜き工事の証拠をさらけ出しながら崩れ落ちた。あの日からこの街は成長を止めた。「がんばろう」なんて耳触りのいい言葉とともに復興を果たしたのはうわべだけで、今でも人々は被災者のままだった。自宅のある海側を振り返る。再開発を繰り返しても一向に景気の上がらない埋め立て地は目に見えぬ震災の傷跡の大きさを物語っていた。あの日のまま時を止めている街には毎日同じ風が吹いている。わたしはそんなK市を気に入っていた。

なだらかな傾斜のある山道をしばらく歩くと山の中腹に白い大きな箱が見えてきた。K大学病院――、国立K大学の附属病院として医学生教育と医療業務を行っている、らしい。これから職場となる場所ではあるが、医大の事なんてそれ位しか分からない。どうせ病院の隅っこで機械のように扱われる臨床検査技師にとって職場の雰囲気なんてものはどうでも良いのだ、と先輩が自嘲していたことを思い出す。機械扱いは大変結構なことだと思う。人付き合いは昔から苦手であり、検査技師を目指したのも他人とあまり話さなくて済むからであった。とぼとぼと歩くうちにたどり着いた白い巨塔を見上げ、振り返る。この職場なら相手は死人だから尚更わたしに向いている。――H県監察医務室。大学病院の斜向かいにひっそりと隠れるように突っ立った小さな建物にわたしは足を進めた。

薄暗い玄関のドアを潜り、受付にいる年配の女性に目を向ける。
「何か御用でしょうか?」
「今日からこちらでお世話になる――」
言いかけた時に女性はぱんと手を叩いてにっこりと笑った。
「ああ!臨床検査技師の方ね。お話は伺ってますわ。私は秘書の高崎花恵です。今日からよろしくお願いしますね。お名前は?」
「よ、よろしくお願いします……佐原春瑠(はる)です……」
「よろしくね、春瑠ちゃん。早速ここの室長にお会いしてもらおう、と思ったんだけれど、生憎今は出張で東京の方に行ってらっしゃるの。大学の教授も兼任してらっしゃるからそっちの用事でね」
春瑠ちゃん、か。初対面の人間にも臆せず堂々とちゃん付けで呼ぶ屈託のなさは正直に言って羨ましい。人間歳を取ると無遠慮になると云うが、これは生まれ持った天真爛漫さと呼ぶべきだろう。わたしには一生かかっても体得できそうにないな、と心の中で自嘲する。
「でも心配いらないわ。教授から春瑠ちゃん宛てに伝言を預かってます」
そう言って高崎さんは受付机から茶色の封筒を取り出した。封をされていない封筒から一枚の紙を取り出し、広げる。裏面からでも分かるほどはっきりとした筆文字で書かれた文面を高崎さんが読み上げた。
「『本日より佐原春瑠臨床検査技師を桐原良医師の助手とする。期間は無制限。貴女の健闘を祈る。』ですって。アカフク、じゃなくて桐原先生の助手はちょっと大変かもしれないけど頑張ってね。先生は二階の廊下をまっすぐ進んだ一番奥の倉庫にいらっしゃるわよ」
ちらほらと出てきた不穏な言葉とは裏腹ににっこりと笑みを浮かべ、高崎さんは辞令と言えるのかどうかも分からない筆書きの文書を封筒に詰めてわたしに手渡した。脳の奥底で野生の勘ともいうべき何かが私を必死に押し止めるが、引き寄せられるようにその封筒を掴む。これはまずい。なぜ伊勢土産の名が出てきたかはさっぱり分からないし、助手にされるなど予想もしていなかったがとにかく非常に嫌な予感がする。初夏の暑さも冷房の効いた建物の中では全く問題にならないはずなのに汗をだらだらとかいていた。階段を上り、廊下を踏みしめるごとに脳内の警報装置が狂ったように鳴り響く。「倉庫」と書かれたドアの前に立ち、ハンカチで汗を拭ってドアノブを一気に捻った。

この時、封筒を投げ捨てて逃げ出しておけば良かったとわたしはこの後数えきれないほど後悔するのである。
sage
次のページ
TOPに戻る
inserted by FC2 system