TOPに戻る
次のページ

Karte.1 吸血鬼 1

わたしがH県監察医務室で働き始めてから数週間が経った。仕事は事件現場から死体を運んできては解剖して検査する事がほとんどで、たまに大学病院なんかの検死の手伝いもさせられるが、まあとにかくわたしの思い描いていた通り、仕事の相手は喋らない死体だった。どうやら極度の人材不足らしい監察医務室の勤務員は、私と高崎さんを除く全員が大学の法医学教室に所属している医師でこちらにはただ一人の例外を除いてほとんど顔を出さず、それもまたわたしにとっては好都合だった。仕事は決して楽ではないが、黙々と自分の世界に没入できるのは自分にとって天職とも思えた。

「おーい、春瑠ちゃーん。仕事だぜ」
そう、このたった一人の天敵の存在を除いては。悪魔の呼び声がわたしを地獄に誘い込む。
「……今度は何ですか」
桐原良。K大学法医学教室助教授にしてH県監察医務室副室長。イギリスの大学を飛び級で卒業し、弱冠二十八歳にして助教授に就任したエリート中のエリートである。ニ十歳で大学を卒業し、帰国した時には臨床研究行政あらゆる分野からスカウトされたという逸材の選択は意外や意外、超マイナー分野の法医学であった。当然教授は大喜びで彼に最高級の待遇と与えられるだけの権限を与え、周囲の不満を抑え込み、期待のエースのご機嫌を取りまくった。彼の英国かぶれと教授との蜜月な関係から付いたあだ名が「近衛兵(レッドコート)」である。嫉妬から生まれたあだ名であったが本人はえらくお気に入りで、赤い物を好んで身に着けている。今日は赤いネクタイを着けていた。濃いグレーの細身のスーツとくるくるとカールした茶髪、クラシックな丸眼鏡。伝説のロックバンドを彷彿とさせるような出で立ちで先生は事務室のドアに寄りかかっていた。

先生の助手であるわたしが彼を苦手なのにはいくつか理由がある。一つには彼が極度の死体マニアである事である。猟奇的なものやグロテスクなものを特に好むので、当然助手であるわたしもそう言った凄惨な死体ばかりを拝まなければいけない。いくら覚悟の上で入った世界とはいえ、入って一週間で生首を拝む羽目になるとは思わなかった。その後もバラバラ死体を並べてパズルのように人を作らされたり、ドロドロに溶けて何が何だかわからない液体から骨を引き揚げさせられたりと思い出したくもない事ばかりだった。

「まあそうふてくされないでよ。そんなに眉間に皺寄せてたらそこにほんとに皺ができちゃうぜ。ま、今ならボトックスで皺取りができるから大丈夫だけどね。あ、そうそう。ボトックス注射で死んだアホなご婦人の話はしたことあったっけ?あれはね――」
「その話ならこの間聞きましたよ。むぐ、ごちそうさまでした。ほら、行きましょう」 二つ目がこの止まる所を知らない饒舌である。放っておけば本当に一時間二時間は平気で喋る。大学の講義では生真面目な学生もノートを取るのを諦めるほどに喋りまくり学生たちをぐったりさせているらしい。わたしは初耳の話にも興味が持てず、昼食のサンドイッチの最後のひとかけを口に放り込み、ブラックコーヒーで流し込んで立ち上がった。

「ところで春瑠ちゃん、夜更かしはお肌に悪いぜ」
廊下を歩き出そうとした時、先生が呟いた。
「え、どうして――」
「コーヒー。大の甘党の春瑠ちゃんのお昼はミルクティーかカフェオレがお決まりじゃないか。ブラックコーヒーは眠い日だけしか飲んでない」
大のシャーロキアンである先生の趣味は人間観察である。小説の中の名探偵のようにほんのわずかな点から人の性格や行動を丸裸にするのが先生にとっての最高の暇つぶしらしい。そして、その暇つぶしの被害を最も被っているのがわたしなのだった。一時は警察にストーカー被害を訴えようかとも考えたが、高崎さんに止められてやめた。ともかく、わたしが先生を苦手な理由の三つ目がこの奇癖なのだ。
「……一々私の私生活を明かさないで下さい。イギリスで紳士のマナーは勉強しなかったんですか」
「ジョン・ブルってやつかい?どうも君を含め多くの日本人はイギリス人を誤解してるような気がするね。スーツを着てステッキを持ったひげ面の男性がレディー・ファーストだのテーブル・マナーだのをきっちり守り、騎士道精神で弱きを援け強きを挫く……、ちょっとお堅いけれど几帳面で礼儀正しい好人物。春瑠ちゃんのイギリス人のイメージってこんな感じじゃないかな」
目の前に居るデリカシーのない先生とは全く違う、シルクハットを被った立派な英国紳士を頭に思い浮かべ、うなずく。
「モッズスーツだのチェスターコートだの、いわゆるブリティッシュ・トラッドなファッションは本国でも当然流行ってるからまあ見た目に関しては間違ってないね。レディー・ファースト、テーブル・マナーみたいな作法は畏まった場では守られるよ。ただ普段から守ってるかと言えばそうじゃない。お目付け役が居なけりゃ嘘、ブラックジョーク、罵倒、暴力のオンパレードさ。悪名高き阿片戦争や二枚舌外交、そっちがイギリス人の本性だよ。外見は立派なスーツに身を包み、パーティー会場ではにっこり笑って握手をするがテーブルの下ではお互い足を踏み合っているような奴ばかりさ。騎士道精神なんてのもありゃ自分たちを賛美するお題目だ。実際は嫌いな奴なら強かろうが弱かろうが何が何でも叩き潰すという執念があるに過ぎない。全く、大英帝国は愉快な国だよ」
わたしの脳裏に笑顔で握手をしながら反対の手で銃を突きつける紳士の姿が浮かぶ。想像上の紳士の顔は桐原先生に良く似ていた。

いつもの通り、遺体が待つ解剖室へと地下へ続く階段を降りようとした時だった。
「こらこら、どこに行くんだい。今日はこっちだよ」
先生が立っていたのはエレベータの扉の前だった。六階建てのこの建物も、まともに使われているのは一階の受付、二階の事務室と先生の私室と化した倉庫、地下の解剖室と検査室くらいの物である。そもそも『医務室』が複数の部屋を持っていることはなんだか腑に落ちないが、制度が云々で結果そういうことになったらしい。三~五階は他の組織の所有であり、六階には室長室というへんてこな名前の部屋があるが、ほとんど用はない。わたしも一度しか訪れたことはなかった。
「教授に何の用があるんです」
「いいから乗りなよ」
ご機嫌でビートルズを口遊んでいる先生に猜疑の視線を向けるも軽々とかわされ、エレベータに押し込まれる。浮上する黄色い潜水艦のようにエレベータは最上階を目指して昇って行った。

「実はね、今日は特別なんだよ」
先生は悪戯を企む子供のような顔でにやにやと私を覗き込む。
「先生の仕事ならゾンビが出てきても驚きません」
「惜しい。正解は、相手が生きてる人間です」
驚きよりも先に厭だという感情が湧きあがる。わたしの元来の内向的性格が絶対的に他人との出会いを拒否するのだ。
「……生きてる人相手に何をするんですか」
不平を全面に押し出しながら言う。
「変な質問だねえ。僕は医者だよ、診療に決まってるじゃあないか」
「先生は法医学者です」
「法医学者だって医者は医者さ。医師免許は持ってるし、論文もチェックしてるからそんじょそこらの内科医にゃ引けを取らない程度の知識はあるよ。まあ、それでも『なんでわざわざ僕が診察するのか』ってのは分かんないよね。よし、教えてあげよう。まず、僕って昔厚労省の方にスカウトされてたりしたからそっちの方のお偉いさんに少し顔が利いてね。あと、仕事の関係で警察にも色々と繋がりがあるのさ。で、お偉いさんって病気が表沙汰になると出世がご破算になったりするらしくてね。そういう人が内々に病気を治してほしいって時に僕を頼ってくるってわけ。性病とか結構多いよ。後は普通の病院じゃ診てくれないようなやつ、とかね」
先生はへらへらと語った。案の定、なんだか非常に怪しげな仕事のような気がする。エレベータが間延びするような鐘の音を響かせ、最上階に到着したことを告げる。
「……それってなんか犯罪とかじゃないんですか」
「犯罪なもんか。いいかい、僕は医師免許を持ってる医師だ。医師法には応召の義務が定められている。患者が求めれば医師は診療をしなくてはならないんだ。むしろそれを断る事こそ犯罪だぜ。それに、こりゃ自由診療なんだから値段は僕が勝手に決めても良いんだよ。ほら、なーんにも悪い事なんてありゃあしないさ。お天道様の下を大手を振って歩けるよ」
どこまで本当なのかよく分からなかったが、先生は自信満々に大手を振って廊下を歩きだした。合法、違法に関わらず胡散臭い仕事の片棒を担がされることを嘆きながらわたしはとぼとぼと後をついて行った。

先生が立ち止ったのは室長室の前を通り過ぎた所だった。今まで気にした事すらなかった扉には「応接室」という文字が彫られていた。先生が扉を開くと、いかにも応接室らしいガラス張りのローテーブルと座り心地の良さそうな皮のソファが目に入ってきた。壁には何と書いてあるのかよく分からない書が掛けられている。
「……ここで診療を?」
「あくまで表向きはお偉いさんとお話しするだけって事にしとかなきゃいけないらしくてね。普段はそこの棚に色々隠してるんだよ」
先生が指差す先には幅広の木製の棚があり、上では手乗りサイズの赤べこがゆらゆらと首を下げている。棚を開けると中には先生が言うとおり、聴診器だの血圧計だのが整然と並べられていた。
「さて、今日の患者の事知りたいよね」
先生は下座側のソファにどっかりと座った。パーティー会場ではにっこりと笑って握手を交わす英国紳士そのままに、先生はこういった細かいマナーに厳格である。患者の事は気になるが、胡散臭い仕事に興味があると思われるのも厭なのであいまいに頷いて先生の隣の最下座に腰かけた。
「ははは、関わり合いを避けようったってもう遅いよ。ま、僕を信じて安心してくれよ。今日の患者なんだけど、病名は『チュウニビョウ』だね」

――チュウニビョウ?何か聞き覚えのある単語が耳を刺激する。
「チュウニビョウって、あの、私の頭の中にはネットスラングの厨二病しか出てこないのですが」
怪訝な顔をする私を見て先生は満足そうな顔をした。
「合ってるよ、それで。今日の患者は厨二病を患ってるんだ。僕は今からそいつを診察して、治してあげるのさ」
sage
次のページ
TOPに戻る
inserted by FC2 system