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「先生!センセェッ!早く来てくれ!!――の腕が吹っ飛んじまっ――」
 ――名前も知らない兵士の言葉は轟音に掻き消された。先生、と自分を呼んだ声へと振り返るとそこには土と石と血と肉とが入り混じった光景が広がる。どうやら吹っ飛んじまったのは辺り一帯のようだ。自分を呼んだ兵士も生きてはいないだろうなと思い、小さく南無三と呟き、私は鉄帽を深く被り直して一目散に走り出した。

 死体を踏みつけ塹壕を這って命からがら大隊本部に辿り着き、私は大きく息を吐いた。連戦連勝、破竹の勢いの大本営発表とは裏腹に、我々の戦線は急速な後退を続けている。私が負傷兵を治療する後方の壕が瞬く間に最前線へと変化する。
「軍医としての最優先の仕事は、指揮官たる将校の治療であり、雑兵の治療にかまけて死ぬ事は重大な軍規違反である。」
 軍医に志願した時に軍のお偉いさんが垂れた訓辞を胸に、お国のために戦った英雄を見捨てて逃げることを正当化してきた。大隊本部の一角に設けられた野戦病院の椅子に腰掛け、消毒用にと支給されたエチルを一口すすり、ぐいと汗を拭った。
「やあ、先生。無事帰還してきたようで何より」
 自分を呼ぶ声に振り返り、立ち上がって右手を額に当てる。
「これは少佐殿!帰還報告が遅れまして申し訳ありません!??軍医大尉、ただいま帰還いたしましたッ!!」
 少佐殿は笑って気にするなと言うように手を振った。二十四、五のあどけなさがまだ残る顔には貼り付けたような笑みと明らかな疲れが浮かんでいた。
「敬語はやめてくれよ、先生。ぼくは大学を卒業したばかりのただの新兵だ」
「それでも、少佐殿は自分の上官でありますからな」
 少佐殿が私の大隊に加わったのは私が軍に志願し、一年が過ぎた頃であったと思う。彼は陸軍学校を卒業したての中尉であり、大学上がりに特有の自尊心と不器用さから古参の兵にはたいへん軽蔑されていた。大学を出ただけの役立たずが尉官として自分達に命令を飛ばすというのは兵隊達にとって非常に不快なものであることは言うまでもない。彼の上官達はそんな兵隊達を叱り飛ばすことをせず、むしろ彼を兵隊達の不満のはけ口にしようと考えていた。そういった理由で、彼は大隊の嫌われ者であった。しかし、軍医という立場は軍における複雑な人間関係からは一線を画した位置にあることに加え、私も大学上がりということもあって私は彼に妙に懐かれていた。階級の上下が逆転した今でも、彼は私を慕ってくれているようである。

 彼が入隊してからしばらくしてこの大隊は戦場に送られた。敵の反攻を少しでも食い止める遅滞防御を主な任務とし、一月ほどは順調に踏ん張っていた。このまま敵が退却してくれるかもしれないと思いかけた矢先の先週、奇襲を受けた。少人数の敵部隊が我々の司令部に潜入し、大隊司令部は完膚無きまでに破壊された。幸運にもたまたま前線に負傷者を迎えに行っていた私と、私の手伝いをしていた彼は奇襲を免れたが、司令部を失った混乱に乗じて大規模な攻撃を受け、大隊は壊滅状態に陥った。将校は全員死亡もしくは瀕死となり、歴戦の勇士たる大隊長殿は生死の境を彷徨いながら敗残兵をまとめ上げ、現在の場所まで退却を成し遂げ、そのまま死んだ。少佐以上の将校が全滅し、もはや大隊は大隊として機能しておらず撤退は間違いないだろうと思われたが、大本営は我々の拠点を是が非でも維持したいらしく増援を一月後に送り、それまでは現地部隊が死守すべしとの決定を下した。そういった事情の中で貧乏くじを引かされたのが彼である。今や軍医たる私を除けば最も階級が高くなった彼に大本営は白羽の矢を立て、撤退を成功させただの、本来昇進予定だったのが手続きの都合で遅れただのと適当に理由をつけて無理矢理彼を少佐に据え、大隊を指揮させることにしたのである。急造の指揮官と半壊した大隊は戦線を維持できるはずもなく、彼が指揮を取り始めてからは退却をしている合間に敵に撃ちかけられ、まともに反撃もできずに逃げるだけという状態が続いていた。

「先生、今夜奇襲を仕掛けようと思う」
 少佐殿の言葉に私は面食らった。精鋭は全員死んで、今残っているのは命惜しさに逃げ出した役立たずばかりであり、奇襲などできようはずもない。
「正気ですか」
彼が悪い冗談を言うような人間ではない事を知りつつも、聞いてみた。
「この司令部が落ちればここいら一帯は敵の物になる。増援が来るまではここを守らねばならない」
少佐殿の目は真っ直ぐに私を見つめていた。
「死んでも知りませんよ」
「ああ、何せ死守だからね。御命令通り死んでくるよ」
 少佐殿の目は爛々と燃えていた。ああ、これは止めても無駄だな??。彼は完全に目前の死に魅入られていた。無言で手元のエチルを煽っていると、少佐殿は一つ息を付き、立ち上がった。
「それじゃあ、命令を出してくる。先生、先生はどうせ生き残るんでしょう。国に帰る時にぼくの遺書も持って行ってくれないか」
彼が差し出した封筒をのろのろと受け取ると、彼は足早に去っていった。

 ――やけに張り切った少佐殿の声がここまで響いてくる。彼の昂りとは裏腹に、兵隊達の士気は低い。不平を隠そうともせず、新米大隊長に向かって抗議の声を上げている。お互い引く気は無いようで、しばらく口論が続いた後、突如銃声が響いた。その後すぐにどかどかと足音がして、兵隊達が担架を運び込んできた。
 担架に寝転んでいたのは不満を漏らした兵隊の1人、ではなく少佐殿であった。兵隊達は誰が撃っただのなぜ撃っただのを言うつもりはなさそうだった。ただ黙って担架から少佐殿をベッドに移し、去ってゆく。
 少佐殿は肩から大量に出血し、意識は失っているが、助けられると直感した。鞄から一番まともな術衣を取り出し、縫合の準備をする。肩にエチルを振りかけ、鞄の底に隠しておいた将校の麻酔用の麻薬を注射したところで後ろから肩を掴まれた。振り返ると兵隊達の中で一番年長の軍曹が険しい面持ちで立っていた。軍曹は私を立たせ、彼から離れるように促した。
「先生、少佐殿は助かりますか」
「ああ、助かるさ。あんたがこんな風に邪魔をしなければな」
少佐殿は出血を続けておりいつ急変するか分からないし、麻酔も術中に切れてはたまらない。私は苛立った面立ちで軍曹を押しのけ、少佐殿の方に歩み寄った。しかし、後ろから軍曹に肩を掴まれ引き戻される。
「なあ、先生。国に帰りたくはないか」
「うるさい!お前の愚痴は後で聞いてやるから放せ!!」
 私は軍曹を睨み付け、手を振り払おうとするが、虚ろな目で私を見つめる軍曹の手には力がこもっていた。
「国に帰りたいんだよ、先生。俺達はもうこんな地獄はこりごりなんだ。……なあ、先生。この大隊には、今そこで死にかけてる少佐と先生以外に将校は残ってねえんだ。先生は軍医だから大隊長にゃなれねえ」
「きっ、貴様っ……!!」
 震える手に硬い物が触れた。腰に下げた拳銃。与えられてはいたが一度も使うことはなかった。無用の長物を掴み、軍曹に突きつける。持ち方や扱いなどすっかり忘れてしまった。弾が入っているかどうかも分からなかった。そんな私のはったりを知ってか知らずか軍曹はぼんやりとした表情を少しも崩さず、小さくため息をついて私の肩から手を離し、一歩後ずさった。
「先生、先生があの若僧に懐かれてたのは知ってるよ。俺達だって少佐憎しで殺そうとしてるんじゃねえ」
「うるさい!離れろ!」
熱くなった頭に軍曹の言葉だけが妙に冷たく響き渡る。彼の言葉をかき消すように私は声を張り上げた。
「――なら好きにしなよ。治したところで少佐殿は奇襲をかけて犬死にさ。なあ、先生。どうせ死ぬ奴を助けて、そのせいで他の人間が死ぬ事になったら、それは人殺しと何が違うんだい」
 軍曹は上げていた手を下ろし、私に背を向け、去って行った。拳銃を脱力しきった手から落とし、少佐殿のもとに駆け寄る。撃たれたショックで気絶しているが、麻酔が効いているのか苦しんでいる様子はなかった。私はのろのろと鞄を開けた。

 ――私があの戦場から帰国し、五年が過ぎた。除隊を受けた後、私はすぐに医者をやめた。今は貯金を食い潰し、いつまで続くとも分からない生活を続けている。
 彼の遺書は、今も私の手元にある。(了)

sage

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