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H県K市の夏は暑い。山脈の斜面に所狭しと並べられた建造物にアスファルトと海からの照り返しが強烈に差し込んでくる。吉川民人はその日非番のために一人暮らしのアパートで思うままに惰眠を貪っていた。

彼は正義感というものを人一倍に持っているつもりだった。教員であり柔道の師範であった父親の教えを受け、生まれ持った体格を生かして強きを挫き、弱気を援け、いつしか警察官になって巨悪に立ち向かうことを夢見ていた。

しかし警察学校を卒業して数年になり、夢だった刑事課に配属されたは良いものの、大きな仕事と言えるのは半ば毎年の恒例行事となっている暴力団総本山への立ち入り捜査くらいのもので、その恒例行事も市民へのパフォーマンス程度の意味しか成さないのであるからして、彼の市民の安全を守るという誇り高い志はとっくに錆びついて、大きな体格は調子づいた若者や酔漢をひるませるくらいにしか役立たないものとなってしまった。とはいえ吉川は平和を良しと思わなかったわけではない。事件が起こらないのであればそれは素晴らしいことだと信じていたが、この社会には警察の手を煩わせたいとしか思えない小悪党がはびこっており、やれ中学生の万引きだのサラリーマンの殴り合いだの風俗店でのいざこざだのといった小間使いのような仕事ばかりが警察の職務の大部分であり、彼の生活のほとんどを占めている現状にほとほと飽き、そして厭々ながらも馴染んだのである。

吉川は不良への第一歩を踏み出した学生にきつい説教と拳骨をくれてやり、酔っ払ったサラリーマンの首根っこを摑まえて留置場へ放り込み、弱気な助平親父から法外な金をむしり取る風俗店に脅しをかける仕事で一生を終えていくことに不満を抱きながらも半ばそれを受容し、忙しくも淡々と日々の生活を過ごしていた。

昨夜も近隣の飲み屋街で酔っ払い同士の喧嘩の仲裁に引っ張り出されていたし、精神的にも肉体的にも疲れは嫌というほどにたまっていたので吉川は束の間の休息をありがたく思った。午前8時には日は完全に昇り切り、安物のカーテンを貫いて吉川の顔を照らしていたが、貴重な休日を体力回復に使うためにも何としてでももう数時間、万年床に寝転がっているつもりだった。差し込む光から目をそらし、一つ気合を入れて大きく深呼吸しかけた瞬間、枕もとの彼の携帯電話がけたたましく鳴り響いた。
――ああ、早速休日はお終いか、畜生め。
そう小さく呟いて寝転んだまま彼は上司からの着信を確認し、携帯電話を耳に当てた。

連絡を受けてからの彼の行動は早かった。さっと身支度を済ませ、急いでタクシーに飛び乗った。彼の心臓は高鳴っていた。つまらない現状をぶち壊してくれる非日常の誘惑と、ようやくその温度に慣れようとした温い日常との別れを恐れる相反する感情が渦巻いていた。
sage
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