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平野警部が「先生」と呼んでいた男は、警察ではちょっとした有名人だった。監察医としての腕と知識は二十代の頃の彼が大学で助教授の座を手に入れる程に優れていて、その奇行も他に類を見ない程に凄まじい—―、この界隈の名物監察医である。吉川も数回見かけた事はあるが、挨拶程度の言葉を交わしたくらいで特に面識は無かった。くるくると好き勝手にカールして栗色に染まった髪とその奇抜な服装は彼、桐原良の奇癖の一部であった。

「ああ、桐原先生。どうもお世話になります。」
件の遺体を覗き込もうとアロハシャツと潜水服の間に身体を滑り込ませようとした時だった。
「やあ吉川さん。この間の首吊りの事件以来ですね」
驚いた。急いで桐原の方を振り返る。微かな太陽光を受けてきらきらと光る茶髪と銀縁の眼鏡。線は細くすらりと高い体躯にジーンズとアロハシャツがよく似合っていた。大学生のような格好の桐原の顔はこれまた学生のように若々しく微笑んでいた。
「……どうして本官の名前をご存知なのでしょうか」
気味が悪かった。ほとんど初対面に近い人物が自分の名前を知っているのは非常に不気味であった。首吊りの時、というのは2年前の自殺遺体の事である。特に何事も無く粛々と処理された事件だったので吉川の記憶からもほとんど抜け落ちていた。
「嫌ですね、吉川さん、その首吊りの時に手帳を見せながら挨拶してくれたじゃあないですか。君の手帳の写真は紺色のスーツに青いネクタイでしたね」
慌てて手帳を開く。今よりあどけなさが目立つ顔立ちに緊張感を漂わせた写真。警察学校を卒業したての吉川はまさしく紺色のスーツに青いネクタイをしていた。

「びっくりするでしょ、先輩。この先生、どうもいっぺん見聞きした事は全部覚えてはるらしいですわ」
近くに居た吉川の後輩、大西が苦笑しながら話しかけてきた。どうやら彼女も同じような不気味な目に遭ったらしい。
「全部じゃあないですよ。僕だって忘れる事ばかりです。とはいえせっかく自己紹介してくれた人の名前を忘れないくらいの礼儀はありますよ」
ぱっと手帳を開いて見せるだけで自己紹介になるとは全く思えなかったが、この奇人に圧倒されきっていた吉川は適当に返事をして、話をうやむやに終える事にした。

sage
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