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「そちらがご遺体ですか」
吉川は湖の前に横たわっている青いビニールシートにくるまれた二つの塊を見て言った。
「ああ、やはり気になりますよね。ぜひ見ていただきたい。ご期待に背かないことは私が保証しますよ」
――医者のくせに何と不謹慎な男だろうか。
自信満々に胸を張る桐原の態度に苛立ちを感じながらも吉川は手近にあった方のビニールシートをめくった。

――何のことはない。いわゆる土左衛門ではないか。
吉川の感想は極めて冷静だった。確かに腐敗はかなり進んでおり、人間の死体特有の鼻を突くような臭気が襲ってきた。頭蓋骨は三分の一ほど露出し、残っている部分は水を吸ってぶくぶくと高野豆腐のように膨れていた。乳房や腹部など脂肪が豊富な部分は特に腐敗がひどく、緑色のぐちゃぐちゃとした塊が腹に空いた穴に溜まっていた。かろうじて残る長い頭髪とワンピース様の衣服は遺体が女性であることを知る唯一の手がかりであろう。若い女性が着るようなレースの付いたもののように見えるが苔や体液で衣服の色はわからなかった。凄惨極まりない遺体である。が、これといって異常はない。水から揚がった遺体というのは概ねこんなものである。

――はらわたから魚が出てこないだけましだろうに。奇人変人の桐原先生も案外肝が小さいんだな。
「先生、これくらいで警察が驚くと思わないで下さいよ。ここは港町ですしこんな土左衛門くらい年に一度は揚がります。」
にやりと笑って吉川は桐原を見た。しかし、桐原の反応は意外なものだった。
「『土左衛門』だって?吉川さん、彼女は『土左衛門』ではありませんよ」
――意味が分からなかった。目の前にあるのはどう見ても見まごう事なき死体であった。水から上がった死体は土左衛門に決まっている。
「いわゆる『土左衛門』とは溺死体を指すんですが、ああ、これは江戸時代の成瀬川土左衛門とかいう力士がぶくぶくと太っていて、溺死体が彼の顔に非常によく似ていたから付けられたと言われているんですけど。とにかく、この女性は溺死ではないですね。おそらく絞殺でしょう。犯人は窒息させて水に沈めれば首を絞めたか溺れたか分からないとでも思ったのかなあ。あはは。こんなの尻の青いひよっこ学生にだってわかるのに。ま、一度持ち帰って診てみないと日付とか詳しいことはわからないですけどね」

吉川は目を見開いて目の前の青年を見つめていた。
――よくそんなに口が回るもんだ。
何より先に出てきたのはそんな的外れな感想だった。続いて出てきたのは死体をヒトではなく語り草としてのモノとみなしていることへの嫌悪感。こんなグロテスクで悲惨な死体を前にして、玩具で遊ぶ子供のように楽しそうに語り続ける桐原は自分とは別の生き物に見えた。少しずつ冷えてくる頭で最後に考えたのが話の内容。『溺死ではなく絞殺』と言い切った点。溺死と絞死の区別くらいは警察学校でも習った。溺死なら気管に水が溜まる。絞死なら顔に血が浮き出て首に縄や血の跡が出る。それくらいの知識ならあるのだが、この遺体は腐敗がひどく、どうにも判別が付きそうになかった。そんなことを考えながら死体に目をやると、桐原がまた口を開いた。
「ああ、溢血点や索状痕は見えないですね。それより彼女の場合は首の腐った穴から気管が飛び出しています。気管が妙な潰れ方をしているんですよね。よっぽど強く絞めたんだろうな。」
そう言って彼は遺体の首元を指差した。確かに首からホースのような管が飛び出し、その一部はひしゃげていた。

「まあ、この遺体は子供だましのようなものです。さあ、百戦錬磨の吉川巡査部長、真打をご覧あれ」
しげしげと遺体を見つめていた吉川の視線を遮るように桐原は手を振り、仰々しくもう一つのビニールシートの包みを指差した。
sage
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