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「何だァ、こりゃ」
気付けば素っ頓狂な声を挙げていた。ビニールシートをめくり上げた吉川の目の前に見た事もない遺体が現れた。むしろ、彼の目に映ったものを遺体とは到底認識できそうになかった。先に現場に居た大西も遺体はまだ確認していなかったようで、驚いた様子で言葉を失っていた。

やや黄色がかっていて、苔で汚れてはいるが、全体には白いすべすべとした塊。確かに人のような形をしている。だがしかし死体というにはあまりにもぼんやりとしすぎている。吉川はがりがりと頭を掻いた。
「……なんというか、どうにも仏さんを拝んでる気がしませんね」
「そうかもしれませんね。普通、死体というのは肉か骨、もしくは血が見えてますから。ところがこの死体にはそれが無い。それどころか身体もふやけて形すら失いつつあるんです。まるで、死が湖の底で溶けてしまったようですねえ。さしづめ、ヒトの魂だの死の概念だの、そういったモノがそっくり溶け出して代わりに水を詰めた水風船とでも言いましょうか。んふふ、法医学者がこんなオカルティックなことを言うなんて変ですね」
アロハシャツの変わり者監察医は自分の言い回しに酔うかのようににやにやと笑っていた。
――生が抜け落ち、死すら抜け落ちた人間はこんな不安定な塊になってしまうのだろうか。
オカルトじみた話は冗談半分に聞き流す性質だが、この死体を見ていると、うすら寒いような、寂しいような、そんな気持ちが止まらなかった。
「えー、ちょっとそういうの怖いんでやめてくださいよ!自分お化けとかムリなんです」
隣に立っていた大西が青ざめた顔で後ずさった。

吉川は感傷的な気分を無理やり仕舞い込み、遺体を改めて観察することにした。腐敗もしておらず血痕もない。ただ、白い。ところがよく見れば顔はしっかりと溺死した人間特有の膨れ上がった顔そのままであり、指などの構造もはっきりとしている。まるで溺死体がペンキで白くコーティングされたような、そんな死体だった。余りの不思議さにそれが死体である事も忘れ、触れてみる。
「……蝋?」
すべすべとしていて、そしてやや湿り気を含んだような触感。触れた後も手には湖の水以外何も付いていないようだった。いわゆるローソク、それも一度溶けて固まった後の蠟の質感にそっくりだった。そして、否が応でも蠟人形の館という言葉が頭をよぎる。しかしそれは人形と呼ぶには余りに精巧で、そして醜かった。顔は丸く膨れ上がり、皺が全て伸びきって肥りすぎた赤ん坊の様である。
——こんな人形は展示できない失敗作だろうな。
不謹慎ながら、そう思った。

「ご明察。そいつは蝋の塊です」
桐原がこちらを見て微笑んでいた。
「死蝋化現象というのをご存知ですか」
いつの間にかダイバー達は湖底捜索に戻っていたようで、場には吉川、大西、桐原の三人になっている。吉川と大西はお互いの顔を見て、共にその聞きなれない言葉が初耳である事を確認し合った。
「シローカってのはどんな字を書くんでしょうか」
吉川がおずおずと尋ねる。
「死蠟化とは、死体が蠟燭に化けると書きます。ヒトが死んで一時間で死後硬直が始まりますが、二時間が経つともうすでに腐敗が始まっています。ゆるやかに進む死体の腐敗の先駆けとなるのは脂肪組織や膵臓の融解ですね。でろでろと溶け出した脂肪は一般には酸化されて、腐ってゆきます。一人目の方のご遺体はこちらですね。しかし、ある特殊な条件下、すなわち温度が低く、湿度が高く、あまり空気に触れない場所では融解した脂肪は加水分解を受け、エステル化します。今回は水の中、それも山の涼しい水の中ですから温度、湿度、空気共にベストだったという事ですね。脂肪のエステル化は鹸化とも呼ばれます。すなわち石鹸になるという事です。ですから蠟であるかと言われれば厳密には石鹸に似た成分なので違うのですが、見た目と触感が蠟人形にそっくりなので死蠟と呼ばれています。水中死体ではたまに見る現象ですが、ここまで完璧に死蠟化しているのはものすごく珍しいです。いやはや、僥倖です。仏のご加護があったのかな、って仏様の前で言う言葉でもないですが」
sage
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